昔は自分が頑張ってる時、誰かがそれを見て頑張ろうって思ってくれた事が嬉しかった。
だから絵に関しても思ってくれるように積極的に頑張ってるつもりを見せることにした。
でも間違っていたかもしれない。
自分の頑張ってるつもりというのは全く楽しまずにわがままで娯楽を捨て自分を縛り付けるやり方だ。(しかもそんな事しても成果は出ない)
それを見た身近な第三者は馬鹿だと思うのか醜いと思うのか。
少なくとも不特定多数にそう思われるのは別に気にしない。
でも本当に絵を楽しんで描いている人の前でそれを見られる、思われるのはその人が絵を嫌いになってしまうんじゃないかと思ってしまう。
今後は楽しんでいる者には秘密裏に滑稽な自分を見て楽しむ者の前では調整して見てもらおう。
Xには少しつぶやいたが、勝者はどんな場所でも勝者になれると思っていた。
歴史を残した偉人はどの時代においてもそのポテンシャルを発揮し時代問わず何かを残すと思ってた。
でも実際は、与えられた才能とチャンスと常人の努力が噛み合っただけなのでは無いかと。
だとしたらそれは運命の奴隷であり逆らうことが出来ない事を意味付けるのではないか。
コミュニケーション能力の才能が無いやつはコミュニケーションを使った事は出来ず。
運動の才能がない奴はプロにはなれない。
頭の悪いやつは頭脳を活かしたことが出来ない。
そして世界は不平等という名の平等があり、才能を沢山与えられる物も居れば全く与えれらない者もいる。
それもまた平等だ。
ただ出会ってないだけと言う人もいるかもだが、例えばの話20年生きたとして8割の人が自分の得意不得意(才能)を見つけるとする。
残りの2割も実際は隠れた才能があるかもだが、同じ年数を生きてある程度の事をしてきてそこで出会えていないのであればそれはもう才能が無いと言ってもいいのでは無いだろうか。
ただ世界はそんな人にも優しく、生きれる世界になっている。
人はいずれ死ぬし
食べ物は腐るし
寝なきゃ頭は回らない
それと同じく
才能無く生まれるやつも居る。
だからこそ才能の無い凡人が持つ剣の刃はどこまで研ぎ澄ますことが出来るのか気になるよね。
伝説の剣じゃなくたってドラゴンに傷は付けれるかも